彼氏やパートナー、友達、上司、親、子ども…自分以外誰かの機嫌が悪いと、自分までイライラしてしまうことありませんか?身近な人の機嫌に振り回されず、自分らしく生きるにはどのように考えていけばいいか考えてみましょう。
私自身、夫や息子の機嫌が悪いと、同じように機嫌が悪くなっていました。「怒っているの?」と聞いても何も答えてくれません。顔を見れば怒っていることは火を見るよりも明らかなんですが。
私の怒りは行き場がなくなり、どんどん大きく膨らみ家の中の雰囲気は最悪です。夫とケンカになるのは、だいたい時間のある休日の朝でしたので、結局そんな日は夕食の時間くらいまでお互いたいして口もきかず、とてもつまらない休日になっていました。
私たちは、問題が生じるとついつい「相手が悪い」という思考になりがちです。私の場合も「もっと向き合ってくれたらいいのに」「話し合いができなかったら、何の解決にもならない」と自分のことは棚に高く高く上げて、夫が悪いと思っていました。夫が悪い、自分は正しい。きっと夫も同じ、自分は正しいと思っていたと思います。
相手の不機嫌は相手の都合
自分の心の中に草原があると思ってくださいね。自分だけが自由に使えるプライベートな草原です。草原ではなくても、居心地のいい家とか、庭でもあなたがイメージしやすい場所でかまいません。ちょっとイメージを浮かべてみてください。
相手の機嫌が悪い時、私たちはよく相手の草原に「もういい加減、機嫌を直しなさいよ!(私のために)」と、ずかずかと入り込んでいます。でも、相手の草原は相手のものですから、なかなかコントロールはできません。プライベートな場所に土足で踏み込まれたらいい気分ではいられません。攻撃は最大の防御となりますから、反撃もしてくるでしょう。
心理学では、「人は変えられない。変えられるのは自分」といいます。それは正しいのですが、これまでの考え方と本日は少し違うものかもしれません。
自分を変えるというと、これまでは同じように相手の不機嫌に腹を立てていたけど、これからは自分からコミュニケーションを取って、「私も悪かったな、相手の気持ちになって考えよう」、「自分から素直に謝ってみよう」などの方法が思いつくと思います。
これも、とってもいい方法だと思います。でも、これだけでは少し足りないと思うのですね。というのは、自分が変わっても相手が頑なに怒り続けていたら?結局は「私がこんなに謝っているのに!(イラ!)」となってしまうのです。もしくは、がっくり落ち込んでしまいます。期待した分、怒りも落胆も大きくなります。
そもそも期待通りに相手が変わってくれるかは相手次第ですから、これもコントロールできないことです。
草原の例えでは、相手の反応に期待しているので、結局は相手の草原に入ってはいなくても、声の届く近さまで行って、「機嫌直して~」と叫んでいる状態です。
結論を言うと、相手が不機嫌なのは、相手の都合でしていることで、自分とは無関係と草原の中に境界線を作ることなのです。
きっかけを与えたのは私、それを受け取ったのは相手
もしも、あなたの言ったことや、行動で相手が不機嫌になったとしても、それを「不快なもの」として受け取ったのは相手なのです。不快な思いをさせてしまった。それに気づけたら、あなたはそれについて謝ればいいと思うのです。そのあとの行動は相手の問題です。これを課題の分離といいます。
よく使われる例ですが、痩せている人にデブと言っても、その人は何も反応しないと思うのです。でも、太っていることを気にしている人にデブと言えば、その人は傷つき怒りを感じると思うのです。
人間同士ですから、自分の意に反して人を傷つけてしまうこともあります。それはある意味、お互いさまだと思うのですね。でも、自分の間違いに気づき、自分ができる最良の行動を取ったなら、あとは相手の草原から出て、自分の草原の手入れだけしていればいいと思います。
すぐにはできなくても、自分の気持ちが落ち着いたら、草原にどんな花を植えようか、ここでお茶をしようかなど自分の好きなことをしたり、集中することなのです。これが自分の機嫌は自分で取るということです。
それでも、相手のことが気になって仕方がないとき、こんなふうに考えてみてはどうでしょうか?もしも、その人に宝くじが1億円当たったら?または急に昇格が決まった、ずっと好きだった人から告白された、とにかく何でもいいので相手にとって、思いがけない最高の幸運が立て続けに舞い降りたとしたらその人の機嫌はどうなるでしょう?きっとその瞬間にあなたへの怒りは吹き飛び上機嫌になると思うのです。
相手の不機嫌は相手の都合で起きているということなのです。そして感情は自分でもコントロールできないことも多いのです。こんないに怒りたくない、でも怒りが収まらずイライラしていることなんてよくありますよね。頭でわかっているのに、心が言うことを聞かない状態です。
そして、どうしても相手が許してくれないときは、それを受け入れるしかないと思うのです。時期が来たら許してくれるかもしれない。それまではそっとしておこう。手放すのも愛ですね。
人に振り回されない生き方にチェンジ
人に振り回される人もいれば、全く動じない人もいます。自分は自分、人は人。見ていて楽だろうなと思います。心が縛られず自由な感じですよね。自分の草原はいつも穏やかで安全な場所として保たれています。
人の機嫌に左右されるようになった多くの場合は、親の顔色を見て育ったからのようです。幼いときに私たちは親との草原(心)の境界線がありませんから、自由に行き来していました。もっと小さな赤ちゃんのときは親と同じ草原に親といました。
そしてだんだんと物心がつき、自分の草原に小さい見えない塀(境界線)のようなものができ始めます。「私」と私以外の誰かの区別。それを自我の確立といいます。
次のようなケースの場合、私たちは大人になっても人の顔色を見て生きることになると思うのです。親の感情が不安定な場合。同じことをしても昨日は叱られなかったけど、今日はひどく叱られた。親の気分次第で子どもへの接し方が変わってしまう状態です。お母さんの機嫌が良ければ、今日は平和に生きられる。でも機嫌が悪ければ今日は最悪な一日になる。
親から見捨てられるということは、幼い子どもにとって生きるか死ぬかに関わることのように感じてしまいます。だから必死に親の顔色を見るのです。敏感な子どもは特に言葉を交わさなくても親の表情や態度を見るだけで、親の機嫌の良し悪しを判断できるようになります。
また子どもにとっての親は、完璧で頼れる存在ですので、親が怒っているということは、怒られる自分が悪いと思ってしまうのです。でも親は決して完璧な存在ではなく、私たちと同じ長所もあれば欠点もあるんですよね。
そんな状態が大人になっても続くと、いつまでも誰かの機嫌によって自分の幸不幸が決められてしまうということになります。恋愛では、今、彼から連絡が来たら幸せで、こなかったら不幸という具合です。これはとっても生きづらい生き方ですね。境界線となる草原の塀が低いままなのです。もう幼いことに感じた見捨てられる不安とは違うのですね。見捨てられても大人の私は生きていけるのです。
誰かの草原には入らない、自分の草原にも人を入れないと、しっかり境界線を引くことが、人から振り回されなくなるコツともいえます。相手の不機嫌に、イメージの中で高い塀を作ってくださいね。
人の数だけ真実がある
私たちは、物ごとを自分の思いたいように考え感じ、思いたいようにとらえます。同じことを経験しても感じることやとらえ方は同じとは限りませんよね。
映画を2人観ても、感想や心に残ったシーンが違うことがあります。注目する視点が違うからなのです。その注目したもの、つまりスポットライトを当てたものにその人の価値観や信念、観念などが加わり、同じ映画を観ても異なる感想がうまれるのです。
人間関係においても、スポットライトを当てたものが違うとケンカになっても相手の言っていることがわからなかったり、言葉が通じないように感じることがあります。
人それぞれにその人なりの真実があるのです。わかり合えないのは当然として捉え、その中でもわかり合える部分を見つけたり、相手の真実は何だろう?と考えてみると、自分の視野が広がっていくと思うのです。少しずつ自分の草原を広げてみませんか?