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成宮千織(なるみやちおり)
心理カウンセラー
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「こんな私でごめんなさい」罪悪感の解放

心理カウンセラーの成宮千織です。カウンセリングサービスのカウンセラーが持ち回りで投稿しています、アメブロ「恋と仕事の心理学@カウンセリングサービス」今日は私のお当番日です。

あなたが、家族、友人、恋人など大切だと思う人に何か怒らせることや悪いなと思うことをしてしまったとき、あなたはどんな行動を取っていますか?素直に謝ることができればいいのですが、そんな時ばかりではありませんよね。

出来事→怒り→反省や自責→怒り

こんなことが私はよくあったのですが、片付けができない子どもにひどく怒ってしまった(出来事→怒り)、でも時間がたつと「少し怒り過ぎてしまったかな」と反省をします。

それから「私はいつも子どもに当たってしまう」と自分を責め始めました。でも次第に「私だって家事も仕事も頑張っているんだから」と再び怒りが出てくるんです(反省、自責→怒り)。

私たちは、自分を責め続けていると辛くなります。すると、そもそも私をこんなにも辛くさせたのは誰のせい?と自分以外の誰かに怒りを向けていくことってあるんですね。

周りの人や環境など悪いところを探し出して心理的に自分以外のポジションを下げ、自分を上げる。すると辛さは軽減されたように感じるのです。これは良い、悪いの話しではなく自分を守る「防衛」なんです。

私は悪い、罰せられる存在、と感じることを罪悪感といいます。

いつも怒られたり、責められるには理由がある

いつも怒られたり、責められる、その状態が人や場所を変えて繰り返し起きているとき、深層心理的には怒られたい、怒らせたい、責められたい、深層では望んでいることがあります。

罪悪感が強いと自分を自分で罰することがあるようです。うーん、ちょっと認めたくないですよね。でも、原因がわかれば解決できるということでもあるんです。

一種の自傷行為のようですが、罪の自分を罰したい。罪を償いたいという気持ちの現われです。わざと相手の地雷を踏みにいったり、怒りのポイントを探し出すようなのです。

昔、人のアラを探してあえて相手に伝える人がいました。当然、伝えられた人は怒ってその人から去っていくのですが、本人はなぜ人が怒って自分から去っていくのかわからないようでした。その人は罪悪感がとても強かったのかもしれません。

「生きていてごめんなさい」

「こんな私が生きていてもいいかな」「私なんていなくなければいいんでしょう」「どうせ私が悪いんでしょう」こう拗ねたようにいつも誰かに怒っている人がいます。

「あなたなんて産まなければ良かった」もし、そんなことを親から言われたら、自分の存在の否定をしてしまいますよね。

私は産まなきゃ良かったと言われたことはないのですが、母から「男の子だったら良かったのに」といわれ続けていたので、「女の子でごめんなさい」「生きていてごめんなさい」という気持ちが強かったんです。

生きているせめてもの償いで、何をするにも頑張らなくちゃ、我慢しなくちゃと思っていました。これって本来の自分ではないのでとてもしんどいんです。

自分が生きていることを自分で否定するのですから、心は蝕まれていきます。過食や拒食をして自分に栄養をとらせないようにしたり、自傷行為をしたり、自分を生かさないようにする人もいます。「生きていてごめんなさい」も罪悪感。でもそれらは全部、感じる必要のないものなんですよね。

まず先に「すみません」が出る

すぐに「すみません」が出てくるとき、そこにも罪悪感が隠れているのかもしれません。罪悪感はなかなか自覚できない感情ですが、自分の言葉や行動を振り返ってみると、意外と簡単にみつけることができるんです。

自分が悪いな?と感じてまず先に「すみません」「ごめんなさい」をいう心理は(決して悪いことではないのですが)、まずは謝って、これ以上私のことを責めないでという「防衛」なんです。先に謝っておけば、多くの人は許してくれた。それが成功体験になって身についたものなのですね。

私たちは、子どもの頃からのいろんな経験を通して、自分を守るすべを身につけていきます。お父さんやお母さん、周りの大人の人がなぜ怒っているのか、子どもが納得するように話してしてくれる人もいれば、態度や表情で怒りを表すわかりにくい人もたくさんいます。

昨日は怒らなかったことも今日、昨日と同じことをしたらひどく怒られた。小さな子どもには理解できないことが続くと、これをしたら怒るのかな?と試したり、人の顔色をみて判断するようになります。

でも先に「ごめんなさい」をいえば少なくとも反抗するよりはマシということもあったと思うのです。それが大人になっても習慣となっていることが多いのですね。

子どもはどんな親でも親のことが大好きでしたし、親は頼りになる完璧な存在と捉えてしまっているので、怒られることは自分が悪いと認識してしまうことも多いようなんです。親も一人の未熟な人間です。それは自分が大人になっていくつになっても、完璧にはなれない状態と同じなんですね。

自分が許せないとき、人に許してもらいたくなる

「この人は許してくれる?」
「どこまでしたら怒る?責めるの?」
「愛してくれているの?」

と試し行為をすることがあります。自分に罪悪感があると、「罰せられる存在」「悪い自分」と前提をもっています。そんな自分は嫌われる、見捨てられるなどいい存在とは思っていません。

優しくて親切な人がいても、その人のことを信じることができず、無自覚に怒りのポイントを探してしまい、わざと怒らせたり地雷を踏んでしまうことがあるんですね。「本当は私のこと嫌っているんでしょう?」「ここまでしても許してくれるかな?」

それを許してくれたとしても、一時は安心できるのですが、また不安がわき上がってきて試したくなります。不安は際限なく繰り返し起きてくるので、地雷を踏み続けてしまいます。

とうとう、その優しい人も我慢の限界がきて離れていくと、「ほらね、やっぱり私は見捨てられる」と変に安心できたりするんです。それは、前提が悪い自分、見捨てられるですので、心の中と現実が一致するからなんですね。

これを心理学で認知的不協和が解消された状態といいます。

自分の中の正解は「許されない」「愛されない」だとすると、当たりが出るまで、くじを引き続けるように試し行為を繰り返してしまいます。外れても当たっても、本人は苦しい、悲しい状態になります。

また、試し行為の目的は、許されるか許してもらえないかなどの一時的な安心感を得ることなので、人を変え、時を変えても終わりがないのです。では、このパターンを終わらせるにはどうしたらいいのでしょうか?

本当はどうなりたいのか?

許してくれない、責められる、怒らせる自分をどう感じていますか?本来のあなたはそんなことをしたいわけではないんです。本当はどうしたいのか?大切な人に何をしてあげたいのか?

大切な人ほど、信頼したいし、優しくしたい。喜ぶことをしてあげたい。試し行為なんてしたくないはずです。

昨日、大切な人の地雷を踏んでしまったかもしれない、怒らせてしまったかもしれない、でも今、そしてこれからのあなたはどうしたいの?そして「私」だけではなく、「私たちは」一緒にどんな気分を感じたいのか?なのです。

罪悪感を解消するには、自分に意識を向けるのではなく「○○のために私を許そう」と大切な人や、なりたいビジョンのために手放すように意識を向けるといいようです。

罪悪感の量と愛の量は比例するといいます。罪悪感の強い人ほど愛が強いといえます。罪悪感の底にある思いは、「本当は○○したかったのに、できなかった。○○してしまった。」なんですよね。

「愛する人を笑顔にしたかったけど、笑顔にできなかった」
「愛する人を悲しませたくなかったけど、悲しませてしまった」
「愛する人を助けたかったけど、助けることができなかった」

愛ある思いなんです。罪ではなく、愛を思い出してください。

自分軸を取り戻し、本当はどうなりたいか?を考えてみてくださいね。